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ACTIVITY / 活動報告

2023-03-11 01:30:00

ホーチミン珍遊記その3『ベトナム戦争の歴史を目の当たりにして言葉を失う』

 今回はホーチミン珍遊記3部作最終章『ベトナム戦争の歴史を目の当たりにして言葉を失う』です。

 

 元々ベトナム戦争にはすごく興味がありました。 

 

 ベトナム戦争とは、1975年に終結するまで約20年間にわたって継続された一連の紛争です。 ベトナムが南北に分裂し、そこに様々な国が介入してきて泥沼化し(日本も介入した)、最終的にアメリカが撤退した後、南北が統一されて終えることになります。

 

 ベトナム戦争は「アメリカの汚点」と表現されることもある戦争で、事実上「アメリカ合衆国唯一の敗戦」と言われることもあります。

 

 当時から『絶対最強国』だったアメリカを、ベトナムのような小さな国、しかも分裂中かつ北ベトナムの一組織である「南ベトナム解放民族戦線(通称ベトコン)」が、アメリカの全力攻撃に耐えて最終的には見事に退けたわけです。

 

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 というわけで、一体この戦争の現場で何が起きていたのか、なぜベトナムのような小国がアメリカという大国に勝てたのか、そしてベトナム国民はどんな気持ちでそれを乗り切ったのかをどうしても知りたく・・・・・今回いい機会だったので色々見に行くことにしました。

 

 

 この戦争は複雑なところもあるので、アメリカ介入の概要を軽くお伝えしたいと思います。

 

 まずベトナムは色々あって南北に分裂してしまうんですが、北側を社会主義国であるソビエト連邦(現ロシア)が支援し、そして南側を資本主義国であるアメリカが支援したわけです。 この構図は朝鮮戦争の構図によく似ており、どちらも「ソ連とアメリカの代理戦争」と言われているゆえんであります。

 

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 社会主義である北ベトナムは、「南ベトナムは資本主義のアメリカに支配されている! 我々の同志である南ベトナムをアメリカから解放しなくてはいけない!!」ということで、「南ベトナム解放民族戦線(通称ベトコン)」を結成し、アメリカに戦いを挑んでいくことになるわけです。

 

 その戦い方はかなり特殊でした。 というのも、国力・武力・資金力・兵隊数・戦闘経験その他諸々・・・全てにおいて圧倒的不利な状態での戦いだったからです。

 

 そこでベトコンは、知恵・アイデア・奇策・根性・・なんかを武器に戦ったんです。

 

 

 まさしく「持たざる者の戦い方」と言うべきか。

 

 

 そのベトコンが本拠地にしたのが、南ベトナム中部にある「クチ」という土地でした。 この土地には「クチトンネル」という施設が今も残っており、今回それを実際に見に行ってきました。

 

 クチトンネルとは、ベトコンがアメリカの攻撃から身を守るために地下に張り巡らせた迷路型の地下道です。

 

 彼らはこの地下道(と言うより、さながらアリの巣)で生活していて、地下道の中には寝室や台所や会議室、学校や病院や映画館?なんかもあったと言われています。

 

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 設計士もおらず掘削機械も使わず、鍬のみで約20年間で掘ったトンネルの総距離なんと250km・・・・!!!

 

 250kmというと、東京〜浜松、大阪〜浜松と大体同じ距離。 想像しただけで気の遠くなる距離・・・!!

 

 さて、かくしてクチの街に向かったのですが、ホーチミンからは大体1時間半くらいかかりました。

 

 今回は日本語の話せるニャンさんというガイドさんにお世話になりました。 ニャンさんは昔日本で働いていたことがあるらしく、非常に日本語は堪能でした。

 

 日本では大阪の緑橋というところに住んでいたらしいのですが、緑橋は弊社のある本町から非常に近いところにあります。 まさかベトナム戦争の歴史を学びに来て、緑橋のローカルおすすめ店の話で盛り上がるとは思いませんでした(笑)。

 

 ちなみにニャンさんは猫年生まれとのこと。 納得!!

 

 

 

 さてクチトンネルに着くと、すでに大勢の観光客がいました(大部分は欧米人)。

 

 施設は基本当時のままで、敷地内に入るとまず当時会議室として使っていた部屋に入り、そこで20分くらいの施設紹介ビデオを鑑賞するんです。

 

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 ここで拝見したビデオの作りが非常に興味深かったです。

 

 私の先入観では、ベトナム戦争の悲惨さを伝えるべくかなりシリアスなダークな作りになっているかと思っていたのですが・・・、思いのほかポップなんです。

 後ろで流れているBGMも非常に明るく、動画の編集も非常にドラマチックというか、勇ましくカッコいいい演出になっているのです(映像は実際の当時のものを使っているらしい)。

 

 恐らくベトナムの人々にとって、このクチトンネルは「哀れみを受ける場所」などではなく、「自分達の尊厳を守った誇り高き場所」ということなんだと思います。

 

 

いたるところにあるトンネルの入り口。 閉所恐怖症の私にとっては非常に恐怖でした。

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 地下道。 これは観光客用に高さを上げているみたいで、当時はほふく前進しないといけなかったとか。 ほんま閉所恐怖症の自分には無理・・・・。。。

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 この施設で実際にベトコンがどのようなゲリラ戦を展開したか目の当たりにしたのですが、それはそれは「目から鱗」でした。

 

 ベトコンは基本的に兵士のように武装せず、民間人を装って米兵の目を欺きながら戦いました。 アメリカ人から見たらどれが兵士でどれが民間人か分からないわけです。

 敵と言えども、兵士ではない民間人を殺すのは米兵としても辛いわけで、それが米兵のメンタルを追い詰める要因にもなったと言われています。

 

 ベトコンには自分達の武器が十分にあるわけではありません。 そこで彼らがとった方法は「アメリカの武器のリサイクル」です。

 

 落とされたミサイルや不発弾を拾ってきて、それを切って加工したり、溶かして鋳造したりして自分達の武器を作っていったわけです。

 施設では、実際に武器をリサイクルしているところが再現されていました。

 

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 彼らはその「リサイクル武器」と「アイデア」を駆使し、色んな仕掛けを作りました。

 

 例えば、踏んだら足が挟まって逃げられなくなったり、前からトゲだらけのどデカい鉄球が飛んでくるようになってたり、「ブービートラップ」という落とし穴の下にトゲを仕込んでいたり・・・と、考えただけでも寒気のする罠をジャングル中に仕掛けたわけです。

 

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 しかもトゲには、刺さったら抜けないように釣り針のような「返し」や、殺傷能力を高めるためにヘビの毒を塗ったりしていたということです。

 

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 怖・・・・・・・。。。。。

 

 

 しかし当時のアメリカ兵は本当に怖かったでしょうね・・・。。 兵力では圧倒しているにも関わらず、戦局は悪くなるばかり。

 相手を攻略しようにも、どこに相手がいるか分からず、不用意に相手陣地に入ってしまうと例のトラップで無惨にやられる・・・。。 めちゃくちゃ不気味だったでしょうね。。

 

 アメリカ兵が語ったと言われる『ベトコンは誰にも見えないが、ベトコンはどこにでもいる』という言葉が、その恐怖を表していますね。

 

 結局アメリカはベトコンを攻略できないまま1973年に撤退し、その後北ベトナムは南ベトナムを陥落させ、長きにわたるベトナム戦争は「社会主義である北ベトナムが南北を統一する」」という形で終わりました。

 

 

 しかしベトナム戦争自体は終わりましたが、その傷跡は今もまだまだ現代にも影響を与えています。

 

 

 ベトナム戦争時、アメリカはベトコンの潜むジャングルを丸裸にするため「枯葉剤」を空から散布しました。

 

 空から飛行機で枯葉剤を散布し、ジャングルの森林を枯らせることにより戦いを有利に導こうとしたわけです。

 

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 この枯葉剤には有害物質であるダオキシンが含まれており、それを直接的に浴びることはもちろん、そのダイオキシンに侵された食物を食べた人にさまざまな障害を引き起こしてしまいます。

 さらに恐ろしいのは、その影響が食べ物を食べた本人だけではなく、子供や孫など被害が子孫にまで引き継がれていくのです。

 

 被害は外形的障害(奇形)や癌、精神障害や機能障害など本当に様々です。

 

 現在ベトナムでは、ひ孫まで4代にわたって障害が起きていることが確認されています。

 

 日本人にとって戦争は遠い過去のものですが、ベトナム人にとってはベトナム戦争はまだまだ過去のものではないのです。

 

 クチトンネルツアーからホーチミンに帰ってきて、市内にある「戦争証跡博物館」に行きましたが、そこでは枯葉剤の被害にあった方々の衝撃的な写真がたくさん展示されていました。

 

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 あまりの悲惨さに、まともに直視することができませんでした。

 

 ベトナム、アメリカ、そこに巻き込まれた日本を含む多くの国々全てが被害を被っており、つくづく「戦争は全ての人間を被害者にする」ということを痛感しました。

 

 

 

 当時は当然アメリカ国内でもベトナム戦争反戦運動が高まっていました。

 

 有名なところでは、ボクサーのモハメド・アリが「俺はベトコンと戦う理由が見つからない。奴らは俺をニガー(黒人の蔑称)とは呼ばない。」と、徴兵を拒否しました(当時は今と比べ物にならないくらい黒人差別があった)。

 

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 その結果、ヘビー級チャンピオンのタイトルとライセンスを剥奪されてボクシング界を追放、実に復帰するまで3年7ヶ月という年月がかかってしまいました。

 

 今よりもずっとボクサーの現役寿命が短かった当時、全盛期を3年半奪われるというのはとんでもない損失です。

 

 もしそのブランクがなければ、世界のボクシングの歴史、いや世界のスポーツの歴史が変わっていただろうと言われています(そのくらい、モハメド・アリの影響力は凄かった)。

 

 

 

 あの範馬勇次郎でも、その心意気には素直に敬意を表するほどです。

 

※クリックで拡大

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 作中、勇次郎がここまでへり下るのはこのシーンだけです(じゃあ敬語くらい使えよ ⇦そこ?笑)。

 

 

 『闘争はいつだって絶望的だった』

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 このセリフは、個人的にかなり名言ではないかと思います。

 

 

 

 

 しかし、現在のホーチミンの街を歩くと、本当にこの民族がベトナム戦争で闘ってアメリカを退けたのか??と疑問に思う程のんびりしています。

 

 当時のベトコンが今の現状を見たらどう思うのでしょうか・・・??

 

 

 

 ・・・・・・でもこれは日本も同じじゃないかなあと思います。

 

 日本は1945年に終戦し、焼け野原の状態から一気に経済復興し、終戦たった19年後の1964年に、世界初の新幹線開通と東京オリンピックを同時期に成功させるんです。

 

 これには世界中がマジでビビったと言われています。 その頃の日本人はほんま凄かったんやなあ・・・・!!!

 

 その頃の日本人が今の日本の現状を見たらどう思うのでしょうか?? 

 

 

 有無を言わさず家族と引き離されて戦地に行かされた人達に「働き方改革」の意味がわかるでしょうか・・・?

 

 片道だけの燃料を入れた戦闘機で、自身が爆弾となり国のために敵陣に突っ込んでいった人達に「ハラスメント」の意味がわかるでしょうか・・・??

 

  

 以前Twitterで、「親ガチャの話をしていたらおばあちゃんに『でもあなたたち時代ガチャ当たりじゃない』と言われてぐうの音も出なかった」というツイートがありました。

 

 

 

 今回ベトナムに視察に行って色々見て、『平和な日本で、五体満足な健康な身体で、まともな人達と一緒に仕事ができている幸せ』を、改めて深く深く咬頭嵌合位で咬み締めた次第であります。

 

 

 

 

 

 

 

 最後にドラえもんの含蓄のある言葉を一つ。

 

 

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